ハル・ハートリー流の“ダメージ加工”

愛・アマチュア

に グレアム・フラー

『愛・アマチュア』(1994)は、ハル・ハートリーというニューヨークを拠点とする映画作家にとって、これまでの路線の継続であると同時に、新たな出発でもある。問題を抱えた男と女が出逢い関係を深めていくが、自分自身を疑って躊躇する物語であることは、これまでの3本の長編映画と変わらない。『愛・アマチュア』のリズム、雰囲気、視覚的要素からは『アンビリーバブル・トゥルース』(1989)、『トラスト・ミー』(1990)、『シンプルメン』(1992)を手がけたのと同じ技術者の精巧な仕事が見て取れる。皮肉やロマンチックな駆け引き、爆発寸前に留め置かれた感情の噴火といったハートリー的なの特徴のすべてが、この新作においても明確に存在していることが確認できるのだ。

しかし『愛・アマチュア』は、これまでのハートリー作品で最も暗く、メロドラマというよりは悲劇である。記憶喪失に陥ったポルノ製作者のトーマス(マーティン・ドノヴァン)、彼と恋に落ちる元修道女のイザベル(イザベル・ユペール)、ポルノ女優で夫トーマスを殺害しようとした若妻ソフィア(エリナ・レーヴェンソン)、ソフィアを守ろうとする元犯罪組織の会計士エドワードは、それぞれに陰鬱で、もの悲しく、苦悩を抱えた皮肉屋たちだと言える。

似たタイプの人物像はこれまでのハートリー作品にも登場していた。しかし『愛・アマチュア』と過去作との違いは、映画がスリラーというジャンルに占拠されていることだ。私には“占拠”という言葉がとりわけ適切に思える。というのも、ハートリーがこの10年でハリウッドが陳腐化させたセックスや犯罪のドラマを踏襲するつもりはないにせよ、ジャンル特有の定石や言い回しの多用は、ハートリー自身がこだわりを探究する場を提供し、(本人が好む言葉を借りるなら)あえて「劣化」を施すために機能している。言わせてもらうなら、タイトルの“アマチュア”は、劇中のトーマスやイザベルを指しているのと同様に、スリラー映画を監督しようとしているハートリー自身のことでもあり、彼ら全員が未知なる領域への探索に足を踏み出しているのである。

本作を、ハル・ハートリー流のアクション・スリラー、あるいはロマンチック・スリラーと捉えることにしっくりこない部分はある。トーマス、ソフィア、エドワードの逃避行の渦中で発せられる「政府高官の汚職」や「政治的に繋がった非常に有名だが究極的には邪悪な国際企業」といった言い回しは、ハートリー作品ではあまり聞き慣れないものだ。実際ハートリーは、セリフの中でスリラーの常套句をあえて際立たせることで、その一般的な機能や不合理さに意識を向けさせる。この映画には、ビジネスや消費者向けの最新技術にまつわるちんぷんかんぷんな専門用語への関心や愛着がある。ソフィアがエドワードに機密情報の入ったフロッピーディスク(彼女やトーマスが言及するように、フロッピー=柔らかくもなければディスク=円形でもない)について尋ね、また「私はmover and shaker(立役者)になるつもり」と話すとき、エリナ・レーヴェンソンの素晴らしい声色は、これらの言葉を初めて使った時、新発見の興奮を感じるアマチュアリズムを余すところなく伝えている。この意図的に描かれた自意識は、私たちがいかに言葉を利用し、作り変え、本来の意味を奪ってしまうのかを露わにしているのだ。

そして『愛・アマチュア』は、一見した印象より多くのことを語っている。本作における知的探究は、女性の性的客体化や映画における暴力表現の分析、少なくともそれらに対する懸念にまで及んでいる。なぜなら記憶喪失によって社会からはじき出されたトーマスと、俗世に生まれ変わったイザベルは、無垢なる旅人であり、ポルノやセクシャルな衣装といった忌むべき悪影響に立ち向かうための最適なモルモットなのだ。(イザベルの「私はセックスのことも、変態性のことも、暴力的な犯罪のことも何も知らない」というセリフは、その背後にある哲学的探究をあまりにも端的に言い当ててしまったせいか、本編からはカットされた)

しかしながら、ハートリーは布教活動をしているわけではない。『シンプルメン』が女性差別は身を滅ぼすと密やかに結論づけたのに対し、『愛・アマチュア』は男女間の性的力学に関して説教よりも検証に重きを置いている。それによって、ハートリー流の暴力表現(『シンプルメン』やテレビ映画『サバイビング・デザイアー』(1991)のダンスのような、振り付けられたスラップスティックな暴力)の系譜にある拷問のような銃撃シーンは、彼や観客を楽しませるためでなく、まるで実験のように演出されている。この点で『愛・アマチュア』は、彼の作品の中で最も政治的であり、最も心安らぐことのない映画なのである。

1994年2月21日、私はグリニッジ・ヴィレッジにあるハートリーのアパートでインタビューを行った。この2年間で、テープレコーダーを前にして彼と話をするのは4度目だ。最初のインタビューは1992年、フェイバー社が出版した『トラスト・ミー』と『シンプルメン』のシナリオ本のためだった。ハートリーは愛想よく、しかし非常に控えめな柔らかい物腰で、自分の映画について整然と、そして情熱的に語る。彼の作品の視覚的、言語的な効率性、そして「この映画はこの形でしかありえない」という印象を与えるのは、作家としての几帳面さと、余計なもの全般に向けられた軽蔑心を反映している。ハートリーは、彼の美的感覚と同様に身のこなしまで無駄がない(そして名前さえも整然と頭韻を踏んでいる)。

つまり、映画はその人を表すのだ。このケースでは、ハートリーは新しい手法に挑む唯一無二の映画作家として、感情の混乱を、熱情的かつ純粋な映像に蒸留することで秩序をもたらそうとしている。しかし付記しておきたいのは、『愛・アマチュア』はハートリーの過去作と同様に寛大な心を持った作品でもあるということ。劇中で、パッツィー・メルヴィルという巡査が主人公たちと出会う。彼女は無節操で残酷な世の中に憤慨し、勤務中の警察署にやってくる被害者や犯罪者を親身に気遣っている。ハートリーは、パッツィーの人物像や俳優パメラ・スチュワートによる演技を通じて、犯罪スリラーというジャンルや警察、そして映画的な物語という概念に対するわれわれの先入観に、最も愉快かつハートリーらしいやり方で「ダメージ加工」してみせるのだ。

グレアム・フラー
1994年6月